8月24日の「所JAPAN」では
「息子を守る!最期まで秘密を隠し通した戦国最強シングルマザー物語」が
放送されます。
この戦国最強のシングルマザーとは豊臣秀吉の側室淀殿です。
今回は淀殿の特集があるようですね。
淀殿は秀吉の死後も息子秀頼を守り続けました。
しかし、その秀頼は秀吉の子供ではないという話も出ているのだとか。
どういうことなのでしょう?
ほかにも大坂城の地中深くには謎の石垣が残っているのだそうです。
どういうことなのか少し調べてみました。

秀吉の子供じゃないの?

誰の子供?
淀殿
8/24(月)よる10時は『#所JAPAN』
戦国美女シリーズ第3弾✨
主役は…😲
豊臣秀吉の側室・淀殿!
秀吉の死後、母として息子を守り続けた“最強のシングルマザー”伝説とは?大坂城🏯に残る謎の石垣を特別公開❗
そこに隠された意外な事実とは?#カンテレ pic.twitter.com/389XnoZzaF— カンテレ (@kantele) August 20, 2020
淀殿は戦国大名浅井長政の娘です。
お母さんはお市の方、戦国一の美女といわれ織田信長の妹。
浅井家滅亡後は母のお市の方が柴田勝家に嫁いだため
越前北ノ庄城に移りましたが勝家が豊臣秀吉に敗北しお市の方が自害した後は
秀吉の保護に入り、側室となりました。
息子秀頼を出産し、秀吉の死後は秀頼の後見人として権力を握っていきます。
その後、大坂の陣で大坂城が落城し、秀頼とともに自害することになりました。
秀頼は秀吉の子じゃない?
淀殿の息子、秀頼は豊臣秀吉の子ではないという話も出ています。
秀頼はなんと身長が197センチもあったのだとか。
現在でも背がかなり背が高いほうですが、当時は今よりもっと身長も低かったし
驚きがあったでしょう。
秀吉は140センチくらいといわれていますし。
秀吉は多くの側室を抱え、大坂城には300人くらいの女性がいたといわれていますが
秀吉の子供がなかなかできなかったり
文禄の役のため秀吉が肥前名古屋城にいた時期と淀殿の懐妊の時期が重なっていることから
出自が疑われていたのだとか。
そこで父親が大野治長説というものがあります。
大野治長は秀吉の家臣での母は淀殿の乳母である大蔵卿局。
大蔵卿局は淀殿のの信頼が厚く、そのため淀殿と治長も
たびたび会あっていたと当時から噂に上がっていたそうです。
大野治長も大坂の陣で秀頼や淀殿と同じく自害しています。
大坂城の地中の石垣
大坂城の地中には謎の石垣があるのだとか。
大坂城は大坂の陣で落城した後、徳川秀忠により再築工事が行われたのですね。
1959年、大阪市と大阪市教育委員会、大阪読売新聞社は、「大坂城総合学術調査団」を組織し
ボーリング調査を行った結果
地下約9.3mの位置から石垣と考えられる花崗岩が確認され
さらに調査を進めると地下7.3mの位置で高さ4メートルの石垣が発見されました。
この石垣は大坂城の本丸「中ノ段帯曲輪」の石垣と考えられています。


歴史って面白いね

新たな発見もあるもんね
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