先日、コパアメリカでサッカー日本代表は決勝トーナメントに進むことができませんでした。
3戦して2分け1敗。
悔しいですが、正直急増チームですし個人的にはもっとひどい結果になると思っていたので
満足はできないけど頑張れたなという感じです。
そこで先日、スペインのレアル・マドリードへの移籍が決定した久保建英選手。
現在、日本人選手で一番注目を集めている選手でしょう。
本当はアビスパ福岡出身でイタリアのボローニャ移籍が決まりかけている冨安健洋選手も
もっと取り上げてほしいのですが。。
久保選手ははじめのうちはカスティージャ(レアル・マドリードB)でスペイン3部リーグで経験を
積むことでしょう。
まだ18歳、輝かしい未来が広がっていくことを祈るのみです。
話は変わりますが、Jリーグが開幕する前は高校サッカーがサッカー界の花形だったように
思われます。
その高校サッカーで久保選手より観客を沸かせた選手がいたそうです。
その人は羽中田昌選手。
6月30日放送の「消えた天才」で出てこられます。
しかし、羽中田選手は全国高校サッカー選手権で試合に出場した後、1試合も出場することなく
姿を消したそうです。
どうしたのでしょうか?
少し調べてみました。

何があったんだろ?

すごい人気だったんだろうね
羽中田昌
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— ヴァンくん【公式】🔥 (@vfk_vent_kun) 2019年2月2日
羽中田昌さんは1964年に山梨県甲府市で生まれます。
少年時代から注目され、小学5年生と6年生の時に全国サッカー少年団大会に出場し
2年連続で優秀選手に選ばれました。
中学の時は全国大会出場はできませんでしたが、高校は山梨県立韮崎高等学校に進学。
1年生の時からレギュラーとして活躍、1年次には全国高校サッカー選手権大会4位
2年生の時には準優勝を飾ります。
3年生の時にはフォワードからミッドフィルダーにコンバートされチームはますますレベルアップ。
4位、準優勝と続いたので次は優勝と意気込んでいましたが、新人戦の後風邪をひいてしまい
それから急性腎炎となり3か月の入院生活を送ることになったのです。
退院後も運動は禁じられていましたが、検査の結果が好転します。
全国高校サッカー選手権をひかえ、「15分だけならプレーしていい」と許可が下りたのです。
韮崎高校は決勝まで進み相手は清水三羽烏と言われた名選手たちもいた一度も勝てていない清水東。
後半15分で0-3、10分早いけど羽中田選手が呼ばれます。
すると満員の国立競技場が大爆発のような歓声に包まれました。
後半26分羽中田選手の投入によって流れが変わり、1点を返します。
この試合の解説者はあのセルジオ越後さん、何人もの選手を見てきた中で最も目を奪われ
声を張り上げたそうです。
最終的には1-4の試合結果となりましたが、満員の観客は魅了されたことでしょう。

悲劇
羽中田昌さんは将来的にヨーロッパでプロとしてプレーする夢を持っていました。
サッカーファンの人たちや周りの人たちも望んでいたことでしょう。
高校卒業後はサッカー推薦での大学進学や企業からの誘いも断り、一般入試で受験をしようと
浪人することにしたのです。
高校選手権から8か月がたった夏、悲劇が襲います。
スクーターに乗って自宅に帰宅途中前輪がパンク、体を激しくたたきつけられ救急搬送されます。
そこで脊髄損傷による下半身不随と診断され、2度とサッカーがプレーできなくなってしまったのです。
その後
その後猛勉強を重ね山梨県庁に就職します。
1993年に開幕したJリーグに触発され1995年に県庁を退職、スペインに指導者の勉強の
ために留学することにしました。
2000年に帰国した後はサッカー解説者として活躍しながら、暁星高校サッカー部のコーチとして指導。
S級ライセンスを取得したあとはカマタマーレ讃岐、奈良クラブ、東京23FC、ブリオベッカ浦安などで
地域サッカーリーグの指揮を執りました。
現在は解説業をしていますが、またちかいうちに監督に戻ってくるかもしれませんね。


「キャプテン翼」の三杉淳や「オフサイド」の熊谷五郎のモデルなんだって

それだけ衝撃的な選手だったんだろうね
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