9月29日の
「世界の何だコレ!?ミステリーSP」では
「明智光秀生存説」が紹介されるようです。
明智光秀といえば昨年の大河ドラマ
「麒麟がくる」でも大きな話題となり
ましたね。
明智光秀は織田信長を討った「本能寺の変」
から11日後に討ち取られたということに
なっていますが、その死をめぐり不可解な
痕跡が残されているのだとか。
そして明智光秀はある人物となって
生存していたという説があるのです。
これは「麒麟が来る」の最終回でも匂わせがあり
話題となりました。
そのある人物とは「天海」
どのような人なのでしょう?
なぜ天海が明智光秀ではないか?と言われているの
でしょうか?
すこし調べてみました。

生き延びたの?

討たれたのは影武者?
明智光秀
可児市ふるさと広報大使
💠 塚本明里です💠現在、可児郷土歴史館で…
可児市で生まれ育ったといわれる #明智光秀 にちなむ特別展『 明智光秀と可児 〜明智荘にルーツを求めて〜 』が開催中❗️
今週末 1/25(土)・26(日) に期間限定で「明智光秀肖像画」が展示されます❗️
→ https://t.co/wVM5cPikWs pic.twitter.com/DCSwSi3wAF
— 可児市 (@KaniCity) January 23, 2020
明智光秀(あけちみつひで)の生まれた年は
はっきりとはしていませんが
1516年説と1528年説があります。
低い身分から織田信長の信頼を勝ち取り
1国1城の主となりますが
謀反を起こし、本能寺の変で主君である織田信長を
討ち取りました。
光秀が信長を裏切った理由にはたくさんの
説があり、怨恨説、黒幕説、最近では四国説も
唱えられていますね。
光秀が信長と四国の長宗我部元親の間を取り持って
いましたが、長宗我部元親が四国を平定しそうになると
信長が態度を変え長宗我部元親討伐を決めたため
光秀の面目が丸つぶれとなったという説です。
光秀は本能寺の変後、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ
敗走中に落ち武者狩りの農民に討ち取られたといわれています。
しかし、打ち取られたのは影武者で本人は生き延びた
という説もあるのです。
天海
川越、喜多院に隣接する仙波東照宮。徳川家光時代に久能山東照宮から日光東照宮に遺骨を写す時、一旦ここで天海和尚がまつったあと日光東照宮へ。天海和尚の徳川家の信頼感を感じるエピソードですがそれを記念して東照宮が建てられました。 pic.twitter.com/BmLGEyCSJW
— hideaki 610 (@hideaki_610) May 31, 2018
天海は天台宗の大僧正ですが、謎多き人物でも
あります。
1608年、天海は72歳の時に65歳の徳川家康と
初対面を果たし家康の懐刀と呼ばれるようになりました。
徳川家康から徳川将軍3代にわたって参謀を務め
徳川幕府の礎を築いた人物ともいわれているのです。
幕府を盤石にするため、風水によるまちづくりを
実践。
東叡山寛永寺を創建し、日光東照宮の造営も
行っています。
なんと天海は106歳まで生きたのだそうです。
光秀=天海?
この謎多き僧侶天海の正体は明智光秀なのでは
ないかという説があります。
二人とも出生日など不明な点が多く
この説は大正時代から唱えられていたのだとか。
天海の墓所の一つは日光にあります。
日光には明智平という観光スポットがありますが
その命名者が天海だというのです。
さらに天海が仕えていた徳川2代将軍徳川秀忠
3代将軍家光の名前に入っている文字を合わせると光秀と
なりますね。
他にもいろいろあるようですが
こじつけのような感じも多いように思います。
ただ、誰誰の生存説とか歴史のロマンが感じられ
面白いことは確かです。


歴史は面白いね

源義経、チンギスハン説とかね
コメント